釣りの入口と、私の釣り哲学
── BRUTUS No.1038「釣りの入口」に誘われて
ポップカルチャーの総合誌『BRUTUS No.1038』より「釣りの入口」という号が出ていたのは既に知っていたのだが、ずっと気になっていて、ついにゲットした。
まさにこれから釣りを始めてみようかと思っている方々に向けた内容であることは言うまでもないが、釣り経験がそれなりにあって、その道をある程度悟った大人が、まるで背伸びをして大人の真似をする子供のような感覚で読むのも、新鮮味があっていいものだ。
魚を釣るという単純な行為の奥深さ
一般的に「魚を釣る」という行為だけを考えれば、特に拘ることはないかもしれない。
しかし、魚の特性に合わせたユニークな釣り方で、自分の想像する理想的なスタイルで魚を釣ることができれば、それはとても心地いい。
狙った魚が簡単に釣れてしまえば面白くない。
何日も粘ってフィールドに通い、気づきを得て、苦労してようやく意図する方法とコンディションで魚を釣り上げた時の感動は、人一倍だ。
BRUTUS「釣りの入口」が描く世界
話を『釣りの入口』に戻すが、内容は特定のジャンルや釣り方に偏っているわけではない。
釣り未経験者や微経験者が“釣り”に対してアーバンなバイブスを感じられるような内容であり、ライフスタイルとファッションの上にフィッシングがある、釣り道具について、関わりあいある人々の風景そのような構成が展開されている。
本誌で紹介されている訳ではないのだが、親和性があるかと思うので個人的に記したいのはアウトドア系のオシャレブランドの「パタゴニア」「イエティー」「バブアー」。
これらは釣りをしない人からも絶大な人気があるのは言うまでもないし、実際にフライフィッシング用アパレルも展開している。
また「スノーピーク」も近年フライフィッシングに力を入れ始めているのは周知の事実だろう。
釣りというものは、ファッション感覚で楽しめるオシャレな遊び、あるいはスポーツとも解釈できる。
言い換えれば、ディズニーランドやライブハウス、クラブのような“人工物の中で遊ぶ”か、人工物がほとんどない自然の中で“次世代の価値観を持った遊び”を選ぶか──その選択でもある。
個人的に思うところ釣りに清潔感を求めるのは限界があるが、オシャレに敏感な男子や女子が釣りを盛り上げてくれるのはいいと思うし、さまざまな選択肢の中から釣りとは関わり合いのない人が釣りを選ぶのも難しいかと思う。
しかし、何か釣りに興味を持つきっかけとして「釣りの入口」をブログの中で記させていただいた
釣りの哲学 ― Celestial Biomeの視点から
ここからは、釣りの哲学として私目線で、このブログ「Celestial Biome」の考えを記してみたい。
魚を釣ること自体は、さほど難しくはない。
しかしその一つ一つは奥が深く、魚の癖を理解した上で、計算された意図とロジックで魚を釣り上げるのは、まさに魚との“騙し合い”。
知的なバトルが繰り広げられるのだ。
第一前提として、魚釣りは「その場所に魚がいるのか?」「これから魚が回ってくるのか?」という読みから始まる。
読みが外れれば魚は釣れないし、魚がいたとしても“ノリ”が悪ければ釣れないことも珍しくない。
魚を釣ることがゴールではない
魚釣りの醍醐味は、魚を釣ること自体ではない。
むしろ“ゴール”という概念はないのかもしれない。
抜かりのない準備から始まり、フィールドでの瞑想に近い自己と自然との対話、
そして帰宅してからの反省、次の釣行への想い──
そのサイクルすべてが「釣り」という体験の一部であり、豊かさそのものだ。
子供の頃の記憶と「存在の自由」
私は子供の頃、魚を釣り上げることよりも、自然の中で無心になり、一体となる行為そのものが大好きだった。
魚は釣れた方が嬉しかったけど、釣れなくても十分満足だった。
釣りをしている時は、ある種の瞑想状態になる。
それが心地よくて、病みつきになる。
ドライフライを眺めるのも、玉ウキを見つめるのも、ルアーをリトリーブやトゥイッチで操るのも──
その全てが、川の音、風の音、鳥の鳴き声、湿った木や草の香りと共に「今ここ」に意識を戻してくれる。
それは、自分自身の「存在の自由」を認識する瞬間でもある。
釣れなくてもいい、自然に身を委ねる
成果主義を期待される社会の中では、「早く釣らなければ」「ボウズは御免」「どれだけ釣れたか」が意識の中心になりがちだ。
だが、私の価値観はそこに重きを置いていない。
無理やり何かを動かそうとする必要はない。
自然に動けばいいと思う。
たとえドライフライ一択で臨んでライズがなかったとしても、それでいい。
「今日の魚はchillinかな」と笑い、フィールドの空気に陶酔し、ただ時間に身を任せる。
それこそが釣りの本質かもしれない。
自分も chillin になったらいい
釣りと食とワインの余韻
そして、フィールドの思い出と共に味わう夕食とワイン。
それは、釣りを通じて得た一日の余韻をゆっくりと身体に染み込ませる時間だ。
自然の中で感じた静けさと自由、
それを胸に、また次の釣行へと想いを馳せる。




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