時間を取り戻す──資本主義の呪縛から自由になる方法

生き方の哲学
資本主義の恩恵を受けながらも自由に暮らす3匹の家猫(ex 野良猫)

気がつけば、私たちはいつも「早く週末にならないかな」「給料日が待ち遠しい」「ボーナスは・・・」と口にして、一年があっという間に終わる。
日本や他の先進国に住む人々の大多数がこのような日常を送っているように思う。
その言葉の裏には、日常が退屈で、今という瞬間に満足していない心が潜んでいる。
けれど、その思考を丁寧にほどいていくと、もっと深く怖い真実が見えてくる。
それは、「早く時間が過ぎてほしい」という願いが、すなわち「早く老い、死へ近づきたい」という願いでもあるということだ。

資本主義社会の中では、時間が貨幣化されている。
私たちは労働という名の取引によって、自らの生命の一部を売り渡す。
働いた時間が多ければ多いほど、得られる報酬も増える──そう教えられてきた。
しかし、報酬とは本当に自由への鍵だろうか?
住宅ローン、カーローン、クレジットカード、税金、保険、投資積立、子育て、生活をする為の必要出費
これらは、より巧妙な鎖なのだろうか。
だれが得して損をしている?


時間が「他者の所有物」になるとき

朝、アラームに起こされ、決まった時刻に働き始める。
その瞬間、自分の時間は自分のものではなくなる。
時計の針が示すリズムに合わせ、会社の都合に従って生きる。
つまり、時間の主導権を“他者”に明け渡しているのだ。

マルクスは、労働によって人間が自らの本質から疎外されることを「疎外」と呼んだ。
現代においてその疎外は、時間という形で進行している。
労働時間は会社が管理し、余暇の時間でさえも消費文化によって支配されている。
Netflix、SNS、コンビニ、サブスク──。
私たちの自由時間は、資本によって設計された娯楽によって“奪われた自由”になっている。

その結果、「自分のための時間」を生きるという感覚を忘れていく。
生きることが、ただ「時間を消費すること」と同義になってしまう。


「給料日」という幻想

給料日は一見、努力の結実であり、自由を手に入れる日のように思える。
しかしそれは、従順さへの報酬でもある。
私たちは毎月、「働くことに同意した証」として給料を受け取っているに過ぎない。
そのお金で買う商品やサービスは、多くの場合、また別の資本の仕組みに還元されていく。

欲望の多くは、外部から植えつけられたものだ。
「より良い暮らし」「便利な生活」「新しいガジェット」──それらは企業が描いた“幸福の幻想”に過ぎない。
そうやって私たちは、給料を得るために働き、働いた対価で消費し、また次の給料を待つ。
このループの中で、誰が最も豊かになるのか。
それは、労働者ではなく、労働者を雇う側である。

私たちは知らぬ間に、自分の時間を差し出して他者の富を増やす装置として生きているのだ。
自分はそれらを見えないテイカーと呼んでいる。


時間を取り戻すということ

では、「時間を取り戻す」とは何を意味するのか。
それは単に、労働時間を減らすとか、早期退職を目指すということではない。
もっと根源的な意味で、「時間=生」という感覚を取り戻すことだ。

時間とは、カレンダーに刻まれる数字でも、給料日までのカウントダウンでもない。
本来は、意識が流れる場そのものだ。
「今ここ」に深く存在することができたとき、時間は“所有物”ではなく、“生命のリズム”として立ち上がる。

働くことが悪いわけではない。
しかし、誰のために働くのか、何のために生きるのかを問い直さない限り、時間は他者に奪われ続ける。

たとえば、自然の中で過ごすひととき。
焙煎したコーヒーを淹れ、風と鳥の声を聞く。
その瞬間、私たちは「生かされている」のではなく、「生きている」ことを感じる。
そこには、金銭も、成果も、評価もない。
ただ、存在しているという感覚がある。
この“存在の充足”こそが、時間を取り戻す最初の鍵である。


日常における小さな逸脱

自由は、かならずしも革命のように大きな出来事から生まれるわけではない。
むしろ、小さな逸脱から始まる。

  • 朝の10分を瞑想や読書に使う
  • SNSを閉じて、自分の考えをノートに書く
  • 給料日ではなく、“創作した日”を祝う

そんな些細な行動の積み重ねが、やがて「他者に奪われた時間」から「自分のための時間」への転換を生む。
それは、資本主義の外側に逃げることではなく、内側で自由を獲得する行為だ。
むしろ、この現代社会の中で生きている以上は資本主義から逃れることは不可能だろう、自給自足の生活を目指しても必ず資本主義に基づいた構造に支配されている。
電気、ガス、水道、インフラ、税金、医療、衛生、治安などは資本主義からなる恩恵だ。


静けさの中の自由

資本主義は外の世界を操作するシステムだ。
だが、私たちが本当に取り戻すべきものは、内なる時間の静けさである。

静寂の中で息を整えると、時計の針が止まったように感じる瞬間がある。
その時、過去も未来も消え、ただ「今」という一点に意識が宿る。
それこそが、最も純粋な自由の形だ。

資本主義が奪えない唯一の資産──それは、意識の中の静けさだ。

この静けさの中にこそ、時間は永遠へと溶けていく。
そして私たちは初めて、自分の人生を“生きている”と実感する。
早く週末にならなくてもいい。
給料日を待たなくてもいい。
この瞬間を、自分の時間として呼吸できるなら──
私たちはすでに、自由なのだ。

夜床につき、自分の為に一日を生きたと認識し、一日が終わってしまうことに名残惜しさを感じ、明日への希望と期待に想いを馳せるような日々を生きるべきだ

見えないテイカーに自分の命を捧げて、テイカーをにんまりさせたくないなら、なおのこと

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